“地域医療の風雲児” 故・村上智彦氏の軌跡
施策として「地域包括ケアシステム」の構築が提言されたのは、厚生労働省の高齢者介護研究会が2003年にまとめた報告書に遡る。「医療や介護が必要な状態になっても、可能な限り、住み慣れた地域でその有する能力に応じ自立した生活を続けることができるよう、医療・介護・予防・住まい・生活支援が包括的に確保される」——北海道岩見沢市に本拠を置く「ささえる医療研究所」が仕掛ける地域包括ケアの取り組みを2回に分けて紹介する。
とりわけ高齢者にとって、「戦う医療」(病気を治すための専門医療)の有効性は限定的で、時として苦痛を与えかねない。対局にある「ささえる医療」は、予防と在宅医療に重点を置き365日、24時間体制で介護・看護と連携し、その人らしい生の在り方をサポートする。2013年に設立されたささえる医療研究所は、今では、人口減少が進む地域のまちづくりをも支えている。
「ささえる医療」のグランドデザインを描いたのは故・村上智彦氏である。“地域医療の風雲児”と称される村上氏は、薬剤師から転身し1993 年金沢医科大学卒業。自治医科大学で5年間研修後、98年に岩手県の藤沢町民病院(現・一関市国民健康保険藤沢病院、54床)で、院長の佐藤元美氏から地域医療の実務を学んだ。
藤沢町は全国に先駆けて、保健・医療・福祉が一体化した「地域包括ケア」を実践していた。高齢社会を見据え、診療所に公設公営で介護老人保健施設と特別養護老人ホームを併設し、在宅医療にも取り組んでいた。町民病院を中心に、早期診断や予防活動、退院後のリハビリテーション、施設でのケア、訪問診療までを一体化しただけなく、総合的な健康管理をしていた。さらに特筆すべきことに、黒字を計上していた。
予防医療を重視し新機軸を打ち出す
1年間の藤沢町勤務の後、村上氏は1999年、
道南部の日本海沿岸の瀬棚町(現・せたな町)の町長から乞われ、北海道に戻った。当時人口2800人だった瀬棚町は高齢化率30%を超え、老人医療費は全国ワースト1。2000年の瀬棚国保医科診療所(16床)開設で、初代院長となった村上氏は予防を重視し、新機軸を打ち出した。まず、全住民を対象にインフルエンザ予防接種(自己負担額1000円)をスタート。翌01年には65歳以上を対象に肺炎球菌ワクチン接種(同3500円)を実施し、全国で初めて公費助成とした。さらに胃がんの原因ともされるヘリコバクターピロリ菌の検査、前立腺がん検診、70歳の誕生月の「古希検診」なども導入した。
診療の合間には、保健師と共に地域で「健康講話」を開催し、予防医療の重要性を説いた。地域に積極的に出向いたことで、町民の健康状態が直に把握できた。肺炎球菌ワクチンの普及で発症者は激減、老人医療費も半減した。後に全国の自治体がワクチン助成を採用するきっかけとなった。予算も人も少なくとも、地域、行政、医療機関の3者が手を携えたことが成功の鍵だ。
2005年、瀬棚町は周辺の北檜山町、大成町と合併して新生のせたな町になると、厳しい台所事情から、旧瀬棚町方式をモデルにしつつ、サービスの平準化が図られることになった。肺炎球菌ワクチン接種は全町に導入されたが、自己負担は4500円で、旧瀬棚町民は1000円の負担増となった。インフルエンザワクチン接種は、法定の65歳以上の全住民が、旧瀬棚町と同じく自己負担1000円で接種できるようにした。
新年度の一般会計予算は約15%削減され、診療所の規模も縮小された。「医療の安全保障」を最重視する村上氏は、折り合いがつかず退職に至る。診療所は3人医師体制だったのが、副所長1人となり、入院患者受付と24時間の救急は打ち切られた。
一時的に北海道を離れた村上氏が2006年、次に戻ってきたのが夕張市だ。高齢化率は45%を超え、炭鉱で栄えた1960年に約12万人いた人口は10分の1に減少したにもかかわらず市立総合病院(171床)を維持し、常勤医師2人で外来と入院患者に対応し、透析もこなしていた。同年、夕張市は600億円を超す債務を抱え財政破綻、病院の負債も約40億円に膨らんでいた。乞われた村上氏は、自ら1億円を借り入れて07年に医療法人を設立。病院を19 床の有床診療所(夕張医療センター)に改変する大なたを振った。公務員として首長に翻弄された瀬棚町の経験から、公設民営にこだわった。
村上氏の片腕となったのが、ささえる医療研究所2代目理事長の永森克志氏である。東京慈恵会医科大学卒業後、長野県佐久市の佐久総合病院で3年間研修した。かつて短命県だった長野県は、今や日本一の長寿県だ。病院は少なかったが、住民健診の受診率向上に努め、予防や早期発見を心掛け、健康に対する意識を向上させた。その中核にあり、専門医療に加えて“最強の地域医療”を展開しているのが、故・若月俊一氏が率いていた佐久総合病院だ。
地域住民の行動変容を促す
有床診となった夕張医療センターは、空いたスペースを老健(定員40人)に転換。一方、在宅医療をゼロから開拓し、介護職員や看護師らが24時間体制で連携し、医師が支援する「地域包括ケア」システムを一気に作り上げた。救急を含む高度医療とかかりつけ医療を、率先して切り離した。村上氏は「『病院がないと健康が保てない』というのは洗脳されている」「超高齢社会の医療モデルを示したい」と意気盛んだった。
5年目には、訪問診療、訪問看護ともそれぞれ100件以上に増えた。歯科を含め常勤医師は5人体制となり、地域医療を学びたいと数年間だけ応援に来る医師も常時おり、救急医療機関に当直を派遣するまでになった。被害者意識と権利意識が強い住民に対して、救急車は緊急時以外に利用しない、夜間でなく昼間に受診する、生活習慣改善のためになるべく歩く……といった行動変容を促した。
2012年、 村上氏は不祥事の責任を取る形で夕張を去り、岩見沢市に在宅支援診療所を開業。医師を安定的に確保できていた夕張時代、道内各地から緊急時や代診の要請に応じ、のべ30市町村を支援した中に、岩見沢市を含む隣接地域があった。夕張郡には訪問診療がなく、永森氏も夕張郡訪問クリニックを開業していた。2013 年、3つの診療所を、村上氏を理事長とする新医療法人社団ささえる医療研究所の下、「ささえるクリニック岩見沢」として統合した。さらに、旭川市で40年以上、村上氏の父が続けていた個人医院も法人に参加した。
「ささえるクリニック岩見沢」の建物は、元は民家で、自宅で最期を過ごしたいとバリアフリーにしたものの病院で亡くなった高齢夫婦から譲り受けた。医療資源が少ない地域で、重症患者を在宅では診るのは難しいため、訪問看護ステーションと訪問介護事業所も開設した。 (続く)
LEAVE A REPLY