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未来の会

当事者として視覚障害者の心を支える

当事者として視覚障害者の心を支える

福場将太(ふくば・しょうた)1980年広島県生まれ。2005年東京医科大卒。06年北海道の美唄希望ヶ丘病院着任。12年に法人が「医療法人風のすずらん会」と改称・拡大し、現在は美唄すずらんクリニック副院長、江別すずらん病院医局員として勤務。


第34回 美唄すずらんクリニック(北海道美唄市)副院長/江別すずらん病院(北海道江別市)精神科医
福場将太/㊦

 2009年、精神科医になって4年目の福場将太は、小児期から患う網膜色素変性症が進行して進退に悩んでいた。そんな福場の面会の依頼を、精神科医の大里晃弘は快く受け入れた。大里は、福場と同様に医学生時代に視力低下が進み、1982年に医学部を卒業したが、当時の医師国家試験は視力障害が欠格事項だったため、医師の道を断念。鍼灸を学んでその道に進んでいたが、2001年に医師法が改正されると、2005年に国試に合格した。

 福場は大里の勤務先である茨城県の精神科病院を訪ねた。大里は右眼の光覚がわずかに残る程度で全盲に近かったが、スタッフに支えられ、精神科医としての仕事を全うしていた。カルテなどは手書きで執筆しなくても、音声パソコンを活用すれば、入力した文字を読み上げてくれる。

 福場は先輩医師に背中を押された。視力障害を抱える医師は他にもいた。2008年に守田稔を中心に創設された「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」で大里も理事に名を連ねる。守田も精神科医で、全盲の国試合格者第1号だ。

 自分は1人ではない。全国で医療に携わる仲間達がいる。美唄に戻れば、上司や同僚医師、スタッフ達が福場を守り立ててくれる。医師を続けていくための技術もある。福場は中高時代にパソコン部に所属しており、ブラインドタッチをはじめキーボード操作はお手の物で、音声パソコンもすぐに習熟した。勤務先には電子カルテが導入されていなかったが、福場が診療録や処方を入力すると、看護師が印刷し、カルテに貼ってくれる。

 福場が新たな活路を見出しつつあった頃、病院は変革の波にさらされていた。2006年に新米の福場を採用し育ててくれた前理事長から代替わりした後、さらなる医師不足などに見舞われ、事態打開のために2009年に3代目の理事長を迎え、築40年以上と老朽化した病院の新築・移転を模索していたのだ。同僚が何人も病院を去ったが、福場は新理事長に協力を仰がれ、共に病院の再興を目指すことにした。2012年4月、新たな医療法人風のすずらん会の下、美唄から移転した江別すずらん病院(江別市)が開設された。

傾聴力を強みに集団療法に関わる

 念願の新病院で、新たな環境に新たな職員、さらには新規の通院・入院患者が増えて、しばらくは息つく暇もないほどの大忙しだった。それでも、活気にあふれた新病院で、引き続き、必要とされていることはうれしかった。

 網膜色素変性症の進行には、個人差がある。福場の母や祖父は夜盲止まりだったが、福場の視力は徐々に失われた。しかし、「ある日突然事故などで全盲になってしまうことに比べれば、慣れていく時間を稼げたこと、病気と向き合い対策を講じる時間ができたことは、幸いだった」と思える。

 視力低下に伴い、できないことも増えたが、それを克服する術も身に着けていった。その過程では恐怖や葛藤もあったが、辛うじて光覚が残るだけになって、ようやく諦念の境地に達したともいえる。この5〜6年は、病状に変化はない。

 美唄の拠点として残ったクリニックの副院長となり、美唄で週4日、江別の本院で週2日診療を担当する。画像や脳波を読んで診断しなくてはならないてんかんなどを除き、統合失調症やうつ病、依存症、認知症など幅広く全ての精神疾患に向き合う。炭鉱閉鎖後、主たる産業もない美唄には、喪失感を抱えた高齢者も少なくない。

 福場が最も得意としているのが、傾聴だ。また近年、依存症などでは、薬物療法以外にグループワークなどの集団療法も注目されている。すずらん病院でも、患者やスタッフが車座になって様々なミーティングを開催しており、福場はそこに誰よりも主体的に関わる。アルコール依存症患者の断酒会、社会復帰を目指した就労支援のための勉強会など、積極的に耳を傾け助言する。

 外来や入院の患者への対応もあるが、検査値などは、看護師が読み上げてくれるため、支障はない。10年来の患者もおり、福場の視力低下に気付いている患者もいれば、気が付かない患者もいて、それもまた診断のポイントになる。「自分の苦しみは他人に分かってもらえないと嘆く患者は多い。そこに、『僕は目が見えてないことに気付いている?』と問い掛けると、少なからず衝撃を受ける」。

 自分だけが理解されないと考える患者の認知の歪みが改善され、自ら分かってもらう努力をしなくてはならないという行動変容がもたらされる。 

 福場は、患者から指摘されれば、微笑みながら包み隠さず目のことを話すようになった。失明を理由に去った患者はいないが、福場に障害があることを知り、あえて診察を望む患者もいる。「五体満足な医師より、説得力があると感じるのではないか」。

講演をきっかけに積極的な情報発信

 もちろん、患者の顔色の変化や表情は分かった方がいい。しかし、福場は、視覚情報がない分、聴覚情報に集中できることを利点と感じている。   

 「顔色はごまかせても声色をごまかせる人は少ない。声やスピードのちょっとした変化に気が付く。それが視覚情報に勝るかどうかは分からないが、声は拠り所となる」

 もはや全盲といえる福場は、この1年、積極的に自分のことを発信するようになった。きっかけは2018年秋、大学の先輩から、視力を失って絶望の縁にいる患者に当事者として話してほしいと依頼されたことだ。病気を恨めしく情けないと考えていた頃の自分であれば、頑なに断ったはずだが、開き直り快諾した。そして、聴衆を笑わせながら勇気付けたことで、自身が吹っ切れた。

 福場の精神的な支えは、趣味の音楽だ。「音楽がなければ、荒くれていた。落ち込んでも、ギターをかき鳴らして歌っている時は、視覚障害を全く意識しない」。これを診療にも生かしたい。デイケアにはカラオケを取り入れているが、さらに踏み込んで、患者1人ひとりにオーダーメイドのテーマソングを作り、元気付けたいと考える。音楽や文筆などの創作活動を発表するホームページも立ち上げた。

 視力喪失で閉ざされる気がした世界は、むしろ広がった。地元の看護学校で教壇に立ち、札幌のクリニックにも応援に出掛ける。白杖をマスターすれば、もっと行動範囲が開けるはずだ。東京に比べてゆったり流れる時の中で、支援の輪もある。かつての同僚が友人として買い物など日常生活を支え、家主も援助を惜しまず、1人暮らしができている。

 医学部の同級生、三宅琢も後押しをする。三宅は眼科医で産業医活動や視覚障害者の支援をしており、神戸アイセンターを運営する法人ネクストビジョンの理事も務める。アイセンターは、髙橋政代が率いるiPS細胞(人工多能性幹細胞)を移植する再生医療の開発と視覚障害者のケアを柱とする。福場は神戸でも講演をし、視覚障害者に心理面から助言をするために理事にも加わった。「できることしかできない医師になったが、平凡な僕に、個性と武器が加わった」。すずらんのように北の大地にしっかりと根を張った福場は、たくましさを増している。(敬称略)

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