今年は『ニムロッド』で芥川賞を受賞。文芸誌とスマートフォンのサイトで読める斬新な形式で連載された小説『キュー』が、大幅な加筆を経て単行本にまとまり、純文学に新しい読者をもたらすのではと注目を集めた。身近な出来事を扱いながら、想像力を駆使して現実を超越した観念の高みに至るという手法で、現実社会に疑問を投げ掛ける。そんな現代文学の旗手に、医療についても語ってもらった。
——デビュー作の『太陽』は宇宙規模の話、三島賞受賞の『私の恋人』は10万年の時空を超えた物語、芥川賞受賞の『ニムロッド』はテクノロジーと人類の未来を描いているとあって、新超越派、超越系文学の旗手などと呼ばれていますが。
上田 今までの小説とは何か違うぞという雰囲気を感じ取っていただき、カテゴライズするために新しい呼び名を作ったということなのだと思います。これは別のカテゴリーにはめないとまずいかな、と思っていただいているのであればうれしいですね。
——小説を目指したきっかけは?
上田 3人兄姉がいて私が一番下で、歳も離れていたので家には両親を含めて年上が5人いて、いろいろなジャンルの本がありました。それを乱読していたのが1つのきっかけです。幼稚園の頃には、本を書く人になりたいと思っていたようです。そんな記憶があるし、卒園時のしおりに、将来なりたいのは本屋さんと書いてあります。照れて本屋さんと言っていましたが、その頃から作家になりたいと思っていたようです。
——作家への道は順調だったのですか。
上田 いずれ作家になるなら文学以外のことを経験しておこうと、高校では理系コースに進みました。ただ、頭脳は文系なので大学受験前に文転し、それでも文学部には行かずに法学部。卒業間際になって小説を書き始めたのですが、2年くらい書いてみて、書きたいものを書くには知らないことが多過ぎることが分かりました。そこで、一度は社会に出てみようと思っていたところ、友人が起業するというので、それに付き合ってITベンチャーに入り、会社の立ち上げに参画しました。それが25歳の時。仕事を続け、会社が軌道に乗り始めたときに、なんとなくもう一回書く気になったんですね。こうして作家として活動を始めたのが34歳の時でした。今から6年前のことです。
——読書に明け暮れた時期があったそうですね。
上田 学生時代に皆が就職活動を始めたタイミングで、集中して読み始めました。逃避だったともいえますが、作家になるには読書量が足りていないと感じていたのも確かです。日本文学といえば夏目漱石だな、世界文学といえばドストエフスキー、戯曲ならシェイクスピアかな、ということで、まずは基本を押さえにいきました。遠回りでも足腰を鍛えておこうという気持ちでした。
——何を書くかは決まっていたのですか。
上田 書きたいテーマはデビューする前からありました。今年単行本になった『キュー』のコンセプトは以前からあって、いつかこういうものを書きたいと思っていました。ただ、これだけの長編だと出版社としてもリスクがあるので、なかなか出せません。それでステップを踏んで、ようやく出せたという感じです。そういう意味で、最初に『キュー』があって、そこに向けて作品を書きながら技術を磨いていた、という感じです。会社で仕事を始める前に書いていた時に、既に『キュー』というタイトルや9章構成で世界最終戦争について書くという構想は持っていました。
ベンチャー企業を通して社会を知った
——企業での経験は役立ちましたか。
上田 仕事は大変で、終電で帰るという日がずっと続いていました。明日をも知れぬベンチャー企業でしたからね。元々パソコン関係のソフトウエアを販売して、それに紐づいたソリューションを販売していたのですが、その仕事を進めて行く中で、日本の社会の仕組みを知ることができたのは大きかったと思います。特にゼロから作っていった企業なので、スタート地点から体験できました。普通に会社勤めをすると、会社の仕事の一部をするだけなので、そのスキルはすごく上がるかもしれませんが、全体は分かりにくいと思います。その点、良くも悪くも全体をやらなければならなかったので、それによって社会を俯瞰的に見ることができたと思っています。
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