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兄弟が提供を申し出、医療保険で移植手術

兄弟が提供を申し出、医療保険で移植手術

佐藤久志(さとう・ひさし)1968年福島県生まれ。1993年福島県立医科大学医学部卒業。同放射線腫瘍学講座助教を経て、2019年講師。同放射線災害医療センター・災害医療部・先端臨床研究センター兼務。


第29回 福島県立医科大学医学部放射線腫瘍学講座講師
佐藤久志/㊦

 2008年4月、移転の手伝いに行った関連病院で、機器をチェックしようと自らのCTを撮影した39歳の放射線科医の佐藤久志は、肝臓に腫瘍の影を発見した。妻の勧めに従い大学病院で精密検査を受けると、腫瘍は3つあった。小学生だった娘の運動会を家族で観戦しながら、「来年もここにいられるだろうか」という思いがよぎった。

 母子感染したB型肝炎ウイルスから発生した肝がんで、肝硬変も進んでいた。外科の主治医は肝移植の可能性があることを示唆した。肝移植を受けるには予後の成績に照らし、腫瘍の直径が3cm以下で3個までという「ミラノ基準」を満たす必要がある。腫瘍の縮小を目的に、抗がん剤の動注療法をスタート。肝動脈まで達するカテーテルを入れ、直接薬を送り込む。3カ月ほど続け基準を満たせば、手術に持ち込めるかもしれない。

 移植の可能性を示されると、新たな悩みに直面した。日本では死後の臓器提供者が少なく、生体肝移植が現実的な選択肢となる。日本移植学会の倫理指針で、ドナーとして認められるのは親族だけだ。3歳年上の兄も3歳年下の弟もB型肝炎ウイルスに感染していたが、共に完治していた。

 実家に出向いて兄と向き合い、自分の病状と移植の道があることを率直に伝えた。頻度が低いとはいえ、ドナーの手術もリスクがあり術後の合併症を伴う。教員である兄は40代の働き盛り、家庭もあるため即答は避けたが、数日後連絡が来た。「お前に肝臓をやるよ」。警察官である弟も提供を申し出てくれた。感謝でいっぱいだった。

 もう1つ難題があった。生体肝移植を保険医療で受けるには、肝不全の診断が必要だ。だが佐藤は肝不全にまで至っておらず、1500万円ともされる手術費用を賄う必要があった。ここにも幸運が働いた。40歳前に外交員に勧められるまま切り替えていた医療保険は、がん診断時に一時金で1000万円払われる。移植の決断を後押しした。

 ドナーとなる兄には、全身のチェックに加えて精神科も受診し、臓器提供が強制されたものでなく自発的なものであることを確認する手続きもあった。5月にがんと診断され、移植手術は8月と決まった。兄は脂肪肝を解消するため節制してくれた。もちろん佐藤自身もそうで、20代にストレスから吸い始めたたばこもスッパリやめた。

 主治医から生体肝移植の症例数が多い京都大や金沢大での手術も打診されたが、福島医大でも30例以上実績があると聞き、迷いはなかった。手術3日前まで働き、勤務先でもある病院に入院。生体肝移植は死亡リスクが10%ある。「やるからには90%を信じてやるしかない」。

「諦めた頃、光が見える」

 術後ICUに移され、意識を回復すると、天井にアリが群がっているような幻視に見舞われた。鼻からの経鼻栄養のチューブを勘違いして自分で抜いてしまう。チューブだらけのまま立たせてくれと怒る……。蕁麻疹も現れ、同級生の皮膚科医が診察に来てくれた。彼女は骨髄移植の経験者だった。苦しむ佐藤を前にニコッと笑い、「多分もっときついことが起きるけど、諦めた頃、光が見えるから」と言い残して行った。以来、その言葉にずっと助けられて来た。

 一般病棟で飲んだコーヒーの味は格別だった。やがて胆汁も流れてきたが、猛烈な腹痛に襲われ、拒絶反応ではないかと心配した。しかし肝生検の結果、肝臓は生着しているものの、手術で切除した部位から胆汁が漏れ出て、胆汁性腹膜炎を起こしていると分かった。腹部に針を刺してチューブを入れ、漏れた胆汁を抜くドレナージにより腹の痛みは消え、日に日に回復していった。

 兄は早々に退院し、1カ月ほどの自宅療養で仕事に復帰した。佐藤は3カ月ほど入院し、翌2009年明けから仕事に戻った。最初は半日の勤務もきつかったが、慣らし運転をしながら徐々にフルタイム勤務もこなせるようになった。

 手術から3年目の2011年3月11日、未曾有の東日本大震災に見舞われた。体調はまだ本調子ではなかったが、福島原子力発電所の事故が明らかになると放射線の専門家として「緊急被ばく医療チーム」に入れられ、2週間ほど病院に寝泊まりした。激務だったが回復の自信に繋がった。

 そして、最初の目標だった5年が過ぎた。夜11時に寝て、朝6時に起床する規則正しい生活を送る。仕事人間から脱し、家族を伴っての電車旅行など趣味に没頭する時間が増えた。酒は大好きだったが、祝いの席でだけ口にするようになった。

 2015年、放射線科の教授が代替わりした。年長の自分がいてはやりにくかろうと大学を去る覚悟もしていたが、引き留められて、新たに開講された放射線腫瘍学講座で患者の治療に打ち込む。

 原発事故に伴う風評には憤りを感じている。事故後、放射線のリスクについての講演会に呼ばれる機会が増えた。子どもから大人まで対象は様々だが、考えを押し付けるのではなく、自分の情報を元に考える力をつけてほしいと全力投球する。

趣味のカービングが米学術誌の表紙を飾る

 一方で、厳しい術後合併症と向き合う日々もあった。2015年5月、40℃を超える急な発熱と共に悪寒戦慄に襲われた。主治医に診てもらうと、胆管狭窄による閉塞性胆管炎を起こしていた。胆汁を排出するため、内視鏡的に胆道内にステントを挿入した。10回近く、ステント交換などの内視鏡治療を受けたが、ステントを入れるたびに苦痛が伴った。

 手術で繋いだ胆管のうち1本が閉塞、その領域の肝臓も萎縮していた。その胆管に感染を生じ肝膿瘍の危険性が高まり、もう1回開復手術をして胆管を繋ぎ直す選択肢もあったが、手術は新たな合併症のリスクもあった。そこで右の肋骨下の皮膚からPTCDチューブを留置、体外のバッグに胆汁を排出することにした。すぐに処置に慣れたが、24時間下げ続けなくてはならない医療用の不繊布製バッグは機能性も見た目も悪かった。佐藤は移植後に趣味にしていた革細工でカービング(彫刻)をしたバッグを作った。その作品は2017年、放射線治療学の国際的学術誌『International Journal of Radiation Oncology, Biology, Physics』の表紙を飾ることになった。 

 同年、米国の放射線医学の大御所Zeitman氏が福島を訪ねた際、原発を案内したり、温泉旅行をするうちに同氏がバッグに目をとめ、編集長を務める雑誌の表紙にと乞われたのだ。病の苦痛を紛らわすため自己流で始めた革細工は、今や玄人はだし。表紙のために葛飾北斎の富嶽三十六景を原画として作品を作り上げた。海外の空港でバッグを液体爆薬と誤解されて毎回検査されることを除けば、発熱もなくなり2年余りの生活は快適そのものだ。

 いつの間にか、移植から10年を過ごしていた。免疫抑制薬は、当初の10分の1ほどの量に減った。慢性肝炎を抱えていたこともあり、佐藤は「50歳まで生きたい」を目標に据えて生きてきた。「50歳になり、目標がなくなってしまった。新しい道を模索するかもしれないが、公私とも人生は充実している」。その目は輝いていた。          (敬称略)

 

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