原木真名(はらき・まな)1963年東京都生まれ。千葉大医学部卒業。同大小児科、都立墨東病院、帝京大医学部附属市原病院を経て、98年開業。
医療法人社団星瞳会 まなこどもクリニック(千葉市)理事長
原木真名/㊤
「病気になっても子供達の表情は明るく、治すことができれば、その先の長い人生に繋げられる」。原木真名は、医学部5年次の臨床実習中、小児科病棟でやり甲斐を見出したことで、小児科の道へと進むことを決めた。医師になり、20代最後の年に自身も大病を患ったが、命を救われて、四半世紀が過ぎようとしている。
1989年に千葉大学医学部を卒業して念願の医師になると、母校の小児科医局に入局。同大医学部附属病院、東京都立墨東病院で1年ずつの修業を積んだ後、3年目は医局人事で帝京大学医学部附属市原病院(現・同大ちば総合医療センター)に入職した頃には、結婚して身籠もっていた。
子供はあらゆる病気にかかるため、小児科で学ぶべきことは幅広い。上に進めば専門が細分化され、感染症を極めたいと思っていたが、若手はとにかく学べと、循環器、血液内科と吸収すべきことは多かった。高校時代にワンダーフォーゲル部で培った体力には自信があり、身重ではあったが、ハードな勤務にも堪えた。9月に息子を授かり、産前6週間、産後8週間の休みが明けると、当直勤務が待ち受けていた。
出産の翌年に体調に異常が
それでも、家族が増えて生活は前にも増して張りが出て、満ち足りていた。翌92年春、職場の健康診断で貧血を指摘されたが、産後のためだろうと余り気にとめなかった。所見には「正球性貧血」とあり、赤血球の大きさや容積は正常と変わらず、よくある鉄欠乏性貧血ではないことが気にかかっていた。
忙しさに紛れて日々を過ごしているうちに、貧血は進行。夏に息子を抱きかかえて歩くと息切れがした。息子は体重も増えていたが、さすがに違和感を覚えたため、自院で採血してみることにした。午後になって、ポケットベルが鳴った。ボスである小児科の教授にすぐ電話をかけると、「ブラスト(芽球)が増えているみたいだから、マルク(骨髄穿刺)をしてみた方がいい」。「どの患者さんですか」と、原木は咄嗟に尋ねた。自分の採血結果のことだとは、夢にも思わなかった。
検査技師は異状を示す検査結果をどう伝えるか悩んだ末、教授に報告したのだった。原木は、その日のうちに血液内科で骨髄穿刺を受けた。腸骨に注射器を刺し、骨の中の骨髄組織を吸引して採取する。生まれて初めて太い注射針を刺され、強い痛みが残り、早退を許された。
子供がウイルス感染症にかかると、貧血症状を呈することがある。それに類した症状ではないか。原木は楽観的だった。数日後、そろそろ検査結果が戻っているだろうとカルテを探ると、「骨髄異形成症候群」という診断名が目に飛び込んできた。
当時の内科の教科書にも数行記述があるだけの耳慣れない病気だった。高齢者に多く、造血幹細胞が成熟した血球に順調に成長できなくなっているため、治療は輸血が中心になるという。小児科の先輩医師の判断を仰ぐと、「ちょっと普通の勤務は難しいでしょうね」という返事だった。
本格的に治療と向き合わざるを得ず、染色した骨髄のプレパラートを携えて、9月に千葉大学病院に検査入院した。最も不安に感じたのは、細胞毒性を持つ薬で治療をすると卵巣機能が失われ、息子に弟や妹は望めなくなるだろうという母としての思いだった。自分の健康が深刻な危機にさらされているにもかかわらず、それは二の次だった。
原木が生まれ育った大田区山王界隈は閑静な住宅地。原木は姉と弟に挟まれ、厳しくも伸び伸びと育まれた。父は平和島で学習塾を開いており、中学校まではそこに通っていた。父は「自分で考え、ベストを尽くす」ことに重きを置いており、幼い頃から読書に親しんだ。3人きょうだいの中で“猪突猛進型”と言われており、活動的で積極的な子供だった。
高校で入った生物部の活動が面白いと感じた。また、山のように読んだ伝記の中から、ノーベル平和賞を受賞した医師で音楽家のシュバイツァーに憧れた。「世のために役に立ちたい」という高校生らしい正義感が芽生えていた。身内に医療関係者はいなかったが、医師になりたいと、一浪の末に千葉大学医学部に合格した。
医師になって5年目、出産を除けば、入院するのは初めての経験だった。病理組織の診断で、芽球が増えて白血病に転化し始めていると告げられた。第二子のことを思い悩むより、自分の治療を最優先させなくてはならず、入院して抗がん剤を用いた化学療法が始まった。
幸い治療が奏功して、半年もすると安定した状態を保てるまでになった。しかし、白血病細胞を完全に退治できたわけではなかった。強い抗がん剤を使えば、骨髄へのダメージが大きくなり過ぎるため、常に再発するリスクと隣り合わせだ。唯一根治が見込める治療法は、骨髄移植(造血幹細胞移植)だけだった。
幸運にもドナーが見つかる
「5年生存率は、移植をしなければ1割、移植すれば3割」。主治医はあっさりと告げた。衝撃的な数字だが、原木は怯まなかった。骨髄移植は多かれ少なかれ合併症を伴う。「高齢者も含めての3割なら、30歳になったばかりの自分なら、もっとずっと高率だろう」。何より、生きたかった。
両親、姉、弟、そして幼い息子まで骨髄の提供が可能かどうか、細胞の型(HLA)を調べる検査を受けたが、誰一人一致せず、血縁者の移植は不可能だった。91年に国内でも立ち上がったばかりの骨髄バンクに登録するよりなかった。
いったん退院し、月に1度抗がん剤を投与しながら、自宅で待機することになった。1歳の息子は、薬の副作用で毛髪や眉毛が抜け、顔つきが変わった母親を怪訝な面持ちで見つめた。やがて息子も慣れ、ほぼ母親業だけに専念できる穏やかな日々が続いた。それはそれで幸福な日々だった。
骨髄移植は細胞が生着しない可能性もあり、いわゆる拒絶反応である移植片対宿主病(GVHD)なども起こってくる。移植が命取りになることもあるため、ある意味覚悟が必要な治療であった。
93年9月、病院から連絡があった。移植が可能なドナーが見つかったという。リスクは恐ろしかったが、ドナーの善意は本当に嬉しかった。母として生き抜くだけなく、医師としても復帰しなくてはならない。再度検査のための入院を決めた。血液検査でHLAを調べる際に遺伝子型を調べるDNAタイピングも実施。ドナーが全面的に協力してくれ、異例の速さで、12月に移植が決まった。(敬称略)
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