東日本大震災で大きな被害を受けた福島県において、病院、クリニック、介護老人保健施設などの運営を行っているときわ会グループ。震災直後は750人の透析患者の移送を成功させ、震災後の復興でも重要な役割を果たしてきた。今後は地域の医療・介護の復興を支え続けるとともに、海外から看護師候補生や介護福祉士候補生を受け入れ、国際化にも力を注いでいくことになるという。
福島県を中心に、病院、クリニック、介護老人保健施設などを展開しているのですね。
常盤 いわき市に泌尿器科と人工透析の有床診療所、いわき泌尿器科を開業したのが最初で、それが1982年のことです。その後、病院との合併があり、クリニックや介護老人保健施設の開設があり、さらにいわき市から市立病院を移譲され、次第に大きなグループになっていきました。現在は、二つの病院、六つのクリニック、二つの介護老人保健施設、二つのサービス付き高齢者住宅、幼稚園、認可型保育園などの運営を行っています。
最初に有床診療所を開業した時から、大きなグループにするつもりだったのですか。
常盤 いやいや、そんな考えは全くありませんでした。それどころか、開業したのが福島労災病院の真向かいで、すぐ近くに磐城共立病院がありましたから、3カ月くらいで潰れるんじゃないかと言われていたくらいです。
それでも患者さんは増えていった?
常盤 人工透析を夜の11時までやっていたのですが、電灯が点いているので、外来をやっていると勘違いして受診してくる患者さんが結構いたのです。そういう患者さんを診ていました。それから、50代くらいで会陰部の不快感を訴える人が当時は多くて、そういう人もたくさん来ていました。大きな病院の先生達は主にがんを診ているので、そんな患者さんは診ないわけです。そういう人が、10年20年たつと前立腺肥大になる。そうやって患者さんが増えていったのでしょう。うちは手術もやるし、透析もやるし、往診もしていました。介護老人保健施設を始めたのも往診がきっかけでした。炭鉱の町だから昔は賑やかだったのですが、炭鉱が閉山してからの町はすたれていきます。夜に往診に行くと、おじいさんとおばあさんが、本当に星空が見えるような家に住んでいるわけです。息子はいるけれど、帰ってこない。そういう高齢者がたくさんいました。これは何とかしなければというので、介護老人保健施設を始めることにしたわけです。開業して40年ほどになりますが、医療・介護分野を中心にして、地域貢献に努めてきたという思いはあります。
透析患者750人の移送に成功
2011年に起きた東日本大震災ではご苦労されたのでは?
常盤 私自身は福島県医師会の会議に出席するため福島市に出張していて、いわき市に戻れたのは夜の11時でした。病院はひどく揺れて、透析を中断しなければならないほどだったそうです。ただ、職員の奮闘もあって、死傷者を出さずに済んだのはなによりでした。
大変だったのは水を断たれたことですか。
常盤 いわき市は東電福島第一原発から50km圏内に位置していますから、電気もガスも水道も断たれましたし、ガソリンや食料の流通もストップしました。透析治療にとって、命とも言えるのが水で、患者さん1人当たり200リットルが必要になります。そして、透析の必要な人が透析を受けられなかったら、1週間で命の危機に瀕します。当時、いわき市内には、ときわ会以外にも透析を行っている医療機関があったのですが、その多くで医師と職員が避難したため、一部の透析患者は治療を受けられなくなっていたのです。いわき市や水道局と何度も交渉したのですが、いわき泌尿器科のある内郷地区は、他よりも早く3月14日に水道が復旧しました。これで水量確保のめどが立ち、他の医療機関の透析患者の受け入れも行いました。
介護施設でも避難が必要だった
それで透析治療が行えたのですか。
常盤 水は確保できたのに、医療材料や薬剤、食料などの物流が止まったままだったのです。放射能に対する恐怖から、トラックが茨城県の水戸や福島県の郡山あたりでストップしてしまう。これではいわき市内で透析治療を続行するのは困難と判断し、バスで患者を移送することに決めました。と言っても、総勢750人の患者さんですから、簡単な話ではありません。困って順天堂大学(大学院医学研究科泌尿器外科学)の堀江重郎教授に電話したところ、東京都の猪瀬直樹副知事に繋いでくれたのですね。そこから石原慎太郎都知事に話が伝わり、「全員連れて来い」と言っていただけたわけです。急遽、大型バスを30台以上そろえ、大移動が始まったわけです。最終的には、東京の国立オリンピックセンターや日本青年館、千葉県鴨川市の亀田総合病院、それから新潟大学医歯学総合病院などへも移送しました。こうして震災から6日後の3月17日までに、患者さん750人の移送が全て完了したのです。
避難したのは透析患者だけですか。
常盤 いや、介護施設でも避難しなければならない状況になっていました。介護老人保健施設の小名浜ときわ苑は、3月21日に千葉県鴨川市への自主避難を行いました。この時は、大型バス6台に、利用者120人、職員と家族70人が分乗して移動しました。施設の最低限の修繕が進み、再開のめどが立ったのを受けて、4月10日〜11日に帰還しています。介護老人保健施設の楢葉ときわ苑は、福島第一原発からわずか16kmの距離に位置しています。建物の構造に被害はなかったものの、断水と停電の影響もあり、入所者と職員の計88人は、当初施設内に止まっていました。しかし、3月12日に原発の爆発事故が起きたことを受けて避難指示が発令され、入院が必要な入所者を常磐病院に移送し、その他の入所者は職員と一緒にいわき市内の小学校に一時避難しました。その後、福島県石川郡のひらた中央病院に移っています。その後、4月18日に一部復旧を果たした小名浜ときわ苑のユニット棟に、53人の利用者を受け入れ、一部事業を再開しました。その後、楢葉町への帰還が事実上困難なこともあり、13年3月にはいわき市内郷地区に仮設楢葉ときわ苑を開設しました。
LEAVE A REPLY