太田守武(おおた・もりたけ)1971年東京都生まれ。2006年大分大学医学部卒業。千葉県や神奈川県で訪問診療医として勤務。14年筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される。15年より自宅で療養生活。
NPO法人Smile and Hope 理事長、医師
太田守武/㊦
34歳で医師になって8年目の2014年、太田守武が、天職として打ち込んでいた訪問診療医の道は、進行性の神経難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断を受けたことで、閉ざされた。そう遠くない将来、待ち受けているのは、動かぬ手足を抱え、自力では食べることも話すことも、呼吸さえできなくなる寝たきりの生活だった。
幼い息子を育てている妻に、さらに自分の介護の負担を強いることは耐え難く、ことさらに冷たく当たった。なす術もない怒りの矛先を向けたというわけではない。絶望から、強く自死を念じていた。2歳になったばかりの息子に、父親の記憶は残らないだろうし、妻には、新しい人生をやり直してほしいと思っていた。
しかし、看護師だった妻は、太田が自宅で暮らせる手はずを着々と整えていった。ALSは厚生労働省の特定疾患に指定されているため、40〜64歳でも介護保険のサービスを受けることができる。ケアマネジャーを筆頭に、医師、看護師、リハビリテーションの療法士、歯科医師、さらにホームヘルパーまで、入れ替わり立ち替わり医療や介護のスタッフが自宅を訪れるようになった。さらに、福祉用具の貸与も受け、充実した在宅療養を受ける環境が整っていった。家族はいつも笑顔で接してくれることも恵まれていた。
ALS患者の講演に鼓舞される
それでも2016年が明けても、太田はなお塞ぎがちで、引きこもり状態にあった。ある日、ケアマネ達が、半ば強引に太田を外へと連れ出した。その日は、日本ALS協会千葉県支部で、患者として先輩に当たる酒井ひとみの講演会があった。
酒井は歯科衛生士として働いていた2007年頃にALSを発症するも、「ALSはきっといつか治る病気」という強い意志を持ち、自宅で夫と2人の子供達と暮らし、ALSへの理解を深めるための啓発活動にも熱心に取り組んでいた。
講演を聴いた太田は、大いに鼓舞された。酒井の前向きな言葉は、聴衆に希望を与えたが、誰よりも、生きる勇気を受け取ったのが太田で、そこから冷え切った心が少しずつほぐれ出した。さらに背中を押したのは、訪問診療の主治医を介して、地元での講演の依頼を受けたことだ。「医師であり、ALS患者でもある太田先生だかからこそ、話せることがあるはず」。その言葉を聞くと、稲妻で体を貫かれたような衝撃が走った。病を得たからと言って、医師であることを放棄する必要はなく、医師資格が失われたわけでもなかった。
2016年10月、「八千代市民フォーラム」で、太田は初めての講演を行った。ALS発症の苦しみや葛藤、将来の展望を率直に語り掛けた。発症前、訪問診療医として看取ってきた患者は200人近くに上った。中にはALSの方もいて、「心残りがない最期を迎えてください」と伝えていた。自分も、医師であることを全うし、人の役に立ちたい。
講演をきっかけに、取材や執筆の依頼も舞い込むようになった。唯一動かすことができた左の人差し指で、懸命に胸の内を綴り、SNSでも発信し続けた。夏には、2年ぶりに、東日本大震災の被災地である岩手県陸前高田市を訪れ、無償の医療相談に応じ、被災者の心のケアにも心を砕いた。車椅子での移動には仲間や家族の支えが必要だったが、医師として役に立てる実感が深まった。
2017年に「難病、障がい者の保健、医療または福祉の増進を図る活動」を目的に、NPO法人「Smile and Hope」を立ち上げた。月2回までと決めた講演会の対象は、医療福祉事業者、看護師、ALS患者や家族、学生、さらに一般市民と様々だ。患者・家族には生きる希望を得てもらい、それを支えるための輪を作りたいと思った。活動は地域にとどまらず、医学生時代を過ごした大分にも東北の被災地にも出掛けた。
しかし、病は容赦なく太田ができることを奪っていった。まず、舌やのどの筋肉の力が弱まり、言葉を発しにくくなったが、自動音声合成装置を用いて活動を続けた。並行して、嚥下障害も起こるようになっただけでなく、呼吸の力も衰えてきた。そこで、2017年8月に胃瘻を造設、2018年1月には生命の危険を考えて、気管切開手術を受け人工呼吸器を導入した。
愛する家族に触れることもできず、食べることはおろか、匂いを嗅ぐことすらできない。コミュニケーンのためには、随意運動が辛うじてできる眼球を動かして、意思を伝え続ける。「これでも私は人間と言えるのだろうか」。
しかし、太田はひるまない。「残酷な病ではあるが、不幸ではない」と言い切れる。自宅では息子が走り周り、仲間達が妻の料理を食べながら、楽しく会話をしているのを見聞きできる。
ALS患者の意思伝達手法を開発する
自分でしかできないことは、まだまだあった。一つは、新しいコミュニケーション方法の開発だ。ALS患者の意思伝達は、文字盤を用いる方法など、様々な方法が試みられているが、決定版がない。太田らが開発した「ダブルアイクロストーク」は、介護者が患者の目の位置を読み取り、太田の瞬きによって確定するという会話法で、特別な文字盤を用いなくてもいい。現在は、介護者が言葉にして確認しているが、患者がこの方法を身に着ければ、患者間だけでプライバシーを保ちながら会話することもできると考えており、まずは地元で普及に取り組んでいる。
2018年6月には、地域の消防署と自治会の協力の下に、特殊避難訓練を主催した。震災などが起こった状況を想定し、高層階にある自宅のベッドにいる太田を安全な場所まで運び出す訓練であり、太田自ら監修してマニュアルを作成した。医師であり、患者ならではの視点が生きている。
被災地に赴いての支援も引き続き続けており、8月には南三陸町に出掛けた。その直後には入院して、気管と食道を完全に分離する喉頭摘出術を受けた。既に声を出すことは難しくなっていたので、発声のための器官は失われても、誤嚥の危険が全くなくなったことで、大好きな食べることの楽しみを取り戻したのだ。
これまで人間の叡智はあらゆる困難を乗り越えてきた。太田も、ALSの治療法ができることを決して諦めない。そこまで生き続けるのだ。その間は、自分のためでなく、医師として患者や家族のために生き、NPOを通じて被災者の心の復興にも努めている。介護保険の抱える問題点など、制度を改善するための発言もしていきたい。
人生も謳歌している。映画『ブレス しあわせの呼吸』を鑑賞するため、銀座に出掛けた。ポリオのため20代で人工呼吸器を装着した主人公への共感もさることながら、人工呼吸器を着けてでも街歩きをする楽しさは格別だった。
小学生になった息子は、七夕の短冊に初めて、「パパの病気が治りますように」と書いた。太田は「生きている限り、とことん人の役に立ち続ける」と、命の火を燃やし続ける。 (敬称略)
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