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40代で発症したALSという難病

40代で発症したALSという難病

太田守武(おおた・もりたけ)1971年東京都生まれ。2006年大分大学医学部卒業。千葉県や神奈川県で訪問診療医として勤務。14年筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される。15年より自宅で療養生活。


NPO法人Smile and Hope 理事長、医師
太田守武/㊤

 「福祉と医療を繋げる医者になろう」。回り道をして医師を目指した太田守武が、学生時代に抱いた思いは、現代の医学では治すことのできない筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病を得てもなお、一層熱く胸のうちにたぎり続けている。

 2006年に大分大学医学部を卒業すると、34歳の新米医師になった。千葉県内の医療機関で研修を積んだ後、2009年に神奈川県相模原市などで念願の訪問診療の仕事に就いた。

 訪問先には、看護師が運転する車で向かう。病だけでなく患者の人生そのものを学べる天職に巡り合い、生き生きと充実した日々を送り、忙しさも全く苦にならなかった。2年が経った頃から、右足にかすかな違和感を覚え、周りからは右足を引きずっているように見えていた。3月に東日本大震災が起こり、たびたび医療ボランティアに出向くなど、忙しさには拍車が掛かっていた。

 次第に足の痺れも感じるようになったが、持病の椎間板ヘルニアのためだろうと、高をくくっていた。子供の時分から、ヘルニアによる腰痛や足の痺れなどの圧迫症状に悩み、中学生の時には手術を受けている。整形外科を受診すると、X線などでヘルニアや脊柱管狭窄症の所見が見つかり、対症的に注射や服薬などを続けていた。

 訪問診療は順調に患者が増えており、長期の休みを取ったり、入院したりする余裕はない。日帰りで減圧目的のレーザー手術を受けたが、症状は軽減されず、その後も悪化しているようだった。

 2013年になると、右だけでなく左の足にも力が入らなくなった。両手にトレッキング用の杖を用いたが、階段の昇降にも不自由を来すようになり、11月に一時的に訪問診療から身を引いた。

 妻は出産を控えていた。自身の実家に近い千葉県に転居すると、何とか医師の仕事を続けたいと、介護老人保健施設の施設長の職を得ることができ、妻に送迎してもらい、車椅子で診療に当たった。

妻は泣き崩れ、息子はまだ2歳だった

 脊椎脊髄外科の名医を求めて、新たにかかった病院の医師は徹底的な検査を繰り返した末、首を傾げた。「ここまでして治らないのならば、神経難病の可能性があります」。勧められるまま、同じ病院の神経内科を受診した。整形外科を中心として、多くの疾患の可能性が、一つまた一つと否定されていった。太田の不安は募ったが、診療中に起きた感染をきっかけとして筋力低下を起こすギラン・バレー症候群ではないかと、一縷の望みをかけていた。診察した医師は、次の診療日に、妻だけでなく、両親も同席することを勧めた。

 その日、ALSの可能性が高いことが伝えられた。実は何度も脳裏をよぎっては打ち消した病名だった。医師である太田にも、看護師だった妻にも、ALS患者にこの先起こり得ることは大方予想がついた。やがて歩くことはおろか、会話も食べることも、呼吸すら自力ではままならなくなる——。妻は泣き崩れた。太田の頭の中も真っ白になったものの、頑なに病名を否定していた。息子はまだ2歳だった。

将来の道を思い定め28歳で医大生に

 太田が医師を志したのは、20歳を超えてからだ。系列の高校から早稲田大学理工学部に進み、大学院で材料工学の研究をしていたが、将来の道が思い描けずにいた。母親が勤める福祉作業所でボランティアに打ち込んでみた。研究で義肢装具を作ったことがあったが、実際にそれがどのように使われているかを、知っていたわけではなかった。

そこで「福祉に明るい医者がいたらいいのに」と利用者が言った言葉を小耳に挟んだ時、医療と福祉を繋ぐ仕事、これこそ自分が生涯を懸けて取り組むべきことではないかとひらめいた。

 修士課程を終えると受験勉強を始めた。煮え切らないまま薬学部に入学してみたが、早々にその道に見切りを付けた。やはり、医師になりたかった。そして、2000年に入学したのが、地域医療の貢献を使命としていた大分医科大だった。

 28歳の新入生ながら、希望に満ちあふれていた。医学の勉強に打ち込むだけでは飽き足らず、友人2人と医療や福祉の当事者から学ぶサークル「かぼすの会」を立ち上げた。カボスはシイタケと並ぶ大分の特産品だ。「医療者には机上の学びだけでなく、体験してみることが必要だ」と考えていた。

 ハンセン病の療養所で元患者と交流したり、薬害による肝炎やエイズ、強い振動を伴う作業をしていた人が患う白蝋病など、様々な患者の声に耳を傾けたり、ボランティアにも勤しんだ。将来、医師として出会う人達の病気になるまでの道筋を、身をもって知りたかった。その活動は医大だけでなく、地元の大分県立看護科学大学にも広がった。後に東日本大震災のボランティアに向かったのも、当時の仲間達と連れだってのことだった。

 医師として、何とか人のためになることはないか。それだけを考えてきた太田に、人の世話にならなければ生きていけないという現実は受け入れ難かった。幸いなことに、手は動かせた。ALSの可能性を告げられた直後から、必死にリハビリテーションに励み、症状を克服しようとした。

 室内ならば歩行器で何とか歩けるまでになったが、トイレに入ろうとして歩行器ごと前のめりに倒れた。それ以降は常に車椅子の生活となったが、今度はトイレの便座から車椅子に移ろうとして床に転倒した。妻に助けを求めようにも、床を這って前進するしかないが、手に力が入らず、わずか3mの移動に1時間以上かかった。もはや、ALSであることを受け入れるよりほかなかった。

 2015年暮れに入院して、脳保護薬「エダラボン」の点滴治療を受けた。また、ALSに関する内外の文献を読みあさった。歯科治療に用いるアマルガムによる水銀中毒を原因とする説もあり、徹底的に補綴物を除去することも試みた。しかし、病気の進行は容赦なかった。

 退院しても、介護保険のヘルパーサービスを利用する気になれなかった。人としての尊厳を保つため、排泄だけは妻の介助を得て自力で行いたかったが、当時80kgあった太田の体重を支えようとして、妻は肩や腰を傷めるようになり、ついに観念せざるを得なくなった。

 それからの太田は、妻にも子供にも目が向かなくなり、ひたすら死を願うようになった。左手の人差し指が動くだけだったが、今なら自分で車に飛び込んだり、海に身を投げたりすることもできる。心を満たしていたのは「絶望」の二文字だけだった。(敬称略)

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