東邦大学は医学部、看護学部、薬学部、理学部、健康科学部の5学部を有し、付属の医療機関には大森、大橋、佐倉の3病院などがある。教育機関としては、医師、看護師、薬剤師、臨床検査技師の国家試験で優れた合格実績を上げ、大学の質的向上が続いている。また、老朽化していた大橋病院(東京都目黒区)が新しいタイプの大学病院に生まれ変わり、2018年6月に開院する。理事長を務めて9年目の炭山嘉伸氏に東邦大学躍進の理由を聞いた。
——90年以上の歴史があるのですね。
炭山 東邦大学の前身となる帝国女子医学専門学校が創設されたのが1925年なので、今年で92年になります。創設者は初代理事長の額田豊氏と、その弟の晉氏ですが、2人は若くして父親を亡くし、母親の手で育てられています。その恩に報いるため女子の学校を作ることにした、というのが帝国女子医専を作った一つの理由です。もう一つは、豊氏がドイツに留学した時、現地の女性医学者が医学研究と家庭を両立させているのに感銘を受けたことです。日本の将来のためにも、女性に科学教育をする学校を作る必要があると考えたのです。豊氏があるノーベル賞学者の家を訪問した時、その母親が学者と対等に科学の話をしているのに驚いた、という話も伝えられています。
——医学部本館はかなり古い建物では?
炭山 この建物は88年の歴史があります。第2次大戦の時に、大森・蒲田の大空襲で辺りは焼け野原となってしまったのですが、これだけが焼け残ったのです。当時、3階に寝泊まりしていた薬学部助教授が、全ての窓を閉めたそうです。窓枠は溶けるほどでしたが、中には火が入りませんでした。また、とび職の経験がある用務員がいて、学生を使ってバケツリレーで燃えている所を消して回り、何とか消失を免れたようです。こういう歴史はきちんと残すべきだと考え、当館1階に学祖をえ額田記念東邦大学資料室を作りました。
——大学になったのは戦後ですか。
炭山 帝国女子医専を作った翌年に、看護学部の前身となる看護学校ができ、2年後の1927年に薬学科が出来、1941年に理学部の前身となる理学専門学校が出来ています。大学になったのは戦後で、1950年に学校法の改正により学校法人東邦大学となっています。帝国という言葉は使えないけれど、「帝国より小さな名前は付けられない」という晉氏の発案で「東邦」となったようです。男女共学になったのも、もちろん戦後になってからです。
——習志野にキャンパスが出来たのは?
炭山 習志野にはかつて駐屯地があったのですが、戦後、政府から土地が払い下げとなり、そこに薬学部と理学部が移転しました。1946年のことです。
国家試験の高い合格率
——今でも女子学生が多いのですか。
炭山 医学部は今年も女子学生が約4割を占めています。薬学部は6割、理学部は4割、看護学部、健康科学部はほとんどが女子です。全体でも女子の方がやや多いと思います。女子学生は非常に優秀です。うちには付属東邦中高(千葉県習志野市)と駒場東邦中高(東京都世田谷区)という二つの付属校があり、推薦制度で医学部に入ってきます。付属東邦中高は男女共学ですが、女子生徒の成績は素晴らしく、今年入学した学生も15人中12人が女子でした。
——国家試験の合格率が好調なそうですね。
炭山 医学部に関しては、医師国家試験の合格率が94.7%でした。私学の中では4位、全国の80大学で11位という成績です。薬学部も薬剤師国家試験の合格率が90.1%。私学で4位、全国73大学中7位でした。看護師国家試験は合格率100%、理学部の学生が受ける臨床検査技師の国家試験も合格率100%です。うれしい結果でした。
——習志野キャンパスに2017年に健康科学部が出来ました。どういう学部なのですか。
炭山 看護師の育成を目的としています。看護学部は大森(東京都大田区)にあるので、習志野に健康科学部看護学科を作ったわけです。佐倉看護専門学校(千葉県佐倉市)は閉校します。大森の看護学部は歴史も実績もあって高い評価を受けていますが、新しく出来た健康科学部がどうなるか、最初の入試までは心配もありました。ところが、1年目から競争率が11倍と高く、偏差値も90年以上の歴史がある看護学部と同程度でした。非常にうれしかったですね。
初年度から健闘出来たのは、看護学の分野での東邦大学ブランドがあったのが理由の一つでしょう。もう一つは習志野キャンパスの環境だと思っています。元々は兵学校だった場所ですが、私が理事長になってから随分てこ入れしてきました。薬学部新棟を建て、健康科学部の新棟を建て、人工芝グラウンドを作り、緑豊かな素晴らしいキャンパスになっています。あそこならきちんとした教育が受けられるだろうということで、多くの受験生が集まってくれたのだと思います。
学納金を下げて大学の質が向上
——理事長として、どんなことに取り組んでこられたのですか。
炭山 理事長に就任したのが2009年9月ですが、まずやらなければならなかったのが、経営基盤をしっかりさせることでした。もう一つが東邦大学のブランド力を高め、それを確立していくことです。ブランド力を高めるための一つとして、羽田には東邦大学羽田空港クリニックと東邦大学羽田空港国際線クリニックがあり、ここに本学の広告も出しています。ただ、大学の質を向上させなければ、本当のブランド力にはなりません。そこで、優秀な学生を集めるために学納金を600万円下げることにしました。
——大学の収入が相当減るのでは?
炭山 年に6億円以上の減収になります。当時は大学の経営状態が非常に悪かったので、猛反対されました。私自身、成功するかどうか、100%確信があったわけではありません。ただ、反対していた人達を説得し、学納金を下げたところ、志願者が増えて、医学部の偏差値が徐々に上がっていったのです。医学部の偏差値が上がれば、看護学部や薬学部など、他の学部の偏差値も引っ張られて上がっていきます。これも計算通りでした。
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