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「走る整形外科医」が片麻痺患者に

「走る整形外科医」が片麻痺患者に
丹野隆明(たんの・たかあき)1957年札幌生まれ。82年千葉大学医学部卒業。1990年松戸市立病院整形外科医長、99年同病院整形外科部長、2009年松戸整形外科病院脊椎脊髄センター長、12年同病院副院長。

戸整形外科病院 副院長・脊椎脊髄センター長
隆明/㊤


フルマラソン完走40回、100kmウルトラマラソン完走10回——。体力が取り柄の“走る整形外科医”丹野隆明は、脊椎外科専門の名医として週3件以上、4〜8時間に及ぶ手術でメスを振るってきた。だが9年前に襲った突然の病は、彼から得意な物を全て奪ったのだった。

 2008年2月22日金曜日、松戸市立病院(千葉県松戸市)の整形外科部長だった丹野(当時50歳)は、いつも通り朝の全体ミーティングを終えると、病棟に向かった。午前8時30分、エレベーターを待つ間から経験のない違和感を覚えた。左の手足がじわじわ痺れてきたかと思うと、力が抜けていく。瞬時に「倒れる」と分かったが、エレベーターの外で倒れなくてはならない、頭を打ってはならないと、とっさの機転が利いた。

 転倒直後すぐに発見されることが、生命予後を左右することは承知していた。果たして、その通り、目指す5階まで踏ん張ると、柔道の受け身よろしく60kgの体躯がドスンと倒れた音に、病棟から大勢のスタッフが駆け付けた。

 幸い、意識は清明だった。「すぐにCTを撮るように」と自らオーダーを出した。ストレッチャーでCT室に運ばれると、神経内科医が待機していた。CT撮像中、「脳出血、脳出血!」というスタッフの声が響き、脳出血を起こしたのだとすぐ分かった。血圧は250mmHgにも達しており、高血圧性の脳出血だ。それで、左半身に片麻痺が生じたのだ。しかし、「重篤な脳出血であれば意識も失われるはずだ。意識がある自分の病の程度は軽いのだろう」と、最初は高をくくっていた。

 健康自慢の自分が倒れるとは、家族やスタッフはもちろんのこと、自分自身にとって最も想定外の出来事だった。自宅から病院まで6km余り、週3回は往復走って通勤していた。実は前の晩、頭重感があったため、その朝は車での通勤だった。「車中で発作を起こさなかったことは、本当に幸いだった」と言う妻の言葉に全く同感だった。

患者の不慮の事故巡りストレス蓄積

 父は銀行員で、丹野は全国を転々として育った。兄と共に、医師だった祖父の道を追い、千葉大学医学部を卒業。整形外科を志願した理由は単純で、運動が好きだから、最も身近な運動器の外科を目指したのだ。学生時代から、走るだけでなく、バスケットボール、テニス、スキー、フットサルを、長らく続けていた。

 飲酒は“人並み”で、学生時代に運動部の常として先輩たちに鍛えられた末、毎日3合程度飲んでいた。年2回受けていた健康診断では血圧をはじめとして何ら異常はなく、喫煙経験もなかった。部長職とは言え、月1回程度の当直をこなし、その後は通常勤務、普通の医師の生活を送っていた。

 「30〜40代はマラソンも仕事も全力で、救急も含めて昼夜区別なく仕事に打ち込み、臨床研究および学会活動も行い、家庭サービスも人並みに。全部よくやれたが、50歳を過ぎてやや過信があったかな」

 急性胃炎、ウイルス性髄膜炎で入院した経験はあるが、「仕事は完璧を期す」という根を詰める性格で、その時も無理がたたった。実は今回も、予兆がないわけではなかった。07年秋、執刀した患者が予期しなかった重篤な術後合併症を併発した。04年の福島県立大野病院産科医逮捕事件などもあって、医師相手の訴訟が多発していた時代だった。

 丹野は自身初めてとなる連日の院内事故調査会議で疲弊し、ストレスが溜まっていた。過失はなかったものの、手術には外科医として常に完璧性を求めてきただけに、その無念が体調に影響したのだろう。倒れたその日は、ちょうど午後から患者家族への説明会が予定されていた。救急当直、待機を伴う病院勤務をもう少しだけ早めにリタイアしていれば、悪夢は起こらなかったかもしれない。

不安と絶望で眠れない夜

 発症直後よりICU に入院。脳腫脹のためその後の記憶は少し混濁している。言葉は発していたようだが、家族によると、会話は成り立っていなかったらしい。時間の感覚も失われ、はっきりと思い出せるのは、脳外科一般病棟に移って10日が過ぎた3月5日になってからだ。携帯電話のキーを打とうとしても、思う通りに打てない。無事だった右手でも細かい作業は出来なくなっていた。左手足は全く動かないだけでなく、痛みもかなりあった。それをなかなか理解してもらえないことももどかしかった。

 それでも、丹野は、顔なじみのリハビリテーションスタッフと共にリハビリを開始した。

 その頃は、混乱からか躁状態で、軽口を叩いてスタッフを笑わせていた。脳外科医である兄の紹介で、3月5日リハビリ専門の東京湾岸リハビリテーション病院(同県習志野市)へ転院した。目標を、「ジョギング再開と現職復帰」に定め、「必ず良くなって、脊椎外科医として病院に戻ってくる」と誓った。

 損傷された中枢神経は再生しない。医師には、“常識”だ。脊髄損傷などで車椅子生活を余儀なくされる患者も数多く見てきた。それでも、その現実を突き付けられるのは、転院して間もなく、リハビリ中の患者を目の当たりにしてからだ。「駄目になった神経は、戻りません」と、担当医は控えめに告げた。

 「不安」と「絶望」——2語で事足りる。眠れない夜が続いた。周囲からは寝ているように見えたかもしれない。しかし、まどろむだけで熟睡からは程遠い。睡眠導入剤を所望した。医師に訴えるべきことはそれ以外何もなかった。その代わり、家族や看護師の前では号泣した。

 4月24日には、日本脊椎脊髄病学会でのパネル発表を予定しており、その準備にかからなければならなかった。演題は「腰椎変性すべり症に対する後側方固定術の長期成績」。1995年ころから10年余り一人で調査を続けた臨床研究の集大成だった。

 妻は「無理よ」と一蹴し、病院にパソコンを持ち込むのを拒み、大喧嘩となった。担当医が許可を与えてくれ、難しければ共同演者に発表を託すという条件付きで、スライド、発表原稿を病室で作成した。その発表を目標に、仕事を続けてきたのだった。それが、リハビリの最初の目標となった。

 そして発表当日、多くの同門の医師たちが見守る中、演壇に向かって、装具を付けた左足を引き、転倒しないように介助してもらい階段を踏みしめた。途中で左足が痙攣し始めたが、転倒することなく7分間の発表を終えた。病院に戻る車中で涙が頬を伝った。

 「これで終わりたくない」。学会には復帰できた、次は現場復帰だ。         (敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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