東海林 豊 医療法人社団城東桐和会 東京さくら病院院長
1955年秋田県生まれ。83年浜松医科大学医学部卒業、東京医科歯科大学第2外科、都立広尾病院、新潟県立十日町病院、都立墨東病院などを経て、米ウィスコンシン大学、ハーバード大学留学。2006年高砂協立病院院長、13年東京さくら病院院長。埼玉医大非常勤講師、千葉大学臨床教授。
医療と介護の連携が求められている中、桐和会グループはまずグループ内の地域包括ケアの実現を目指している。その中核となっている東京さくら病院で院長を務める東海林豊医師は、救急医療の第一線で活躍してきた外科医だ。今は畑違いの慢性期病院のトップだが、その哲学は「とことん診る。それが医療」だ。
◆開院後約3年、慢性期医療はいかがですか。
東海林 私は急性期医療の現場で外科医師として手術をしてきました。しかし、「医療とは」との問いに答えを見つられずにいたところに、慢性期を中心にし、老人保健施設も併設する新しい病院ができるので、そこでやってみないかとお話をいただき、2013年7月の開設から院長をしています。初めは、急性期にいた時には聞いたことのない言葉も出てきて戸惑いましたが、今では「慢性期を理解することで急性期と融合した医療ができるのでは」とアイディアを練るほどになりました。しかし、まだまだ道半ばです。やることはたくさんあります。
◆病院の特徴はどのようなところにありますか。
東海林 東京都江東区の江戸川沿いにある6階建ての建物です。医療療養病床120床、回復期リハビリテーション病床60床、緩和ケア病床38床、一般病床40床の計258床で、5階には介護老人保健施設も併設しています。当病院を運営する医療法人社団城東桐和会が所属する桐和会グループは、特別養護老人ホーム五つ、介護老人保健施設二つ、グループホーム二つを運営しており、高齢者医療に注力しています。
「断らない病院」と「最後まで診る医療」
◆モットーは何ですか。
東海林 「断らない病院」です。慢性期病院に来て驚いたのは、紹介患者を受け入れるかどうかを院内会議で決めていることでした。外科は患者さんを断りませんからね。疾患の具合や全身状態など条件があるのは分かりますが、来たら断らずに受けたらいいと思い、現在は実行しています。そして、急性期から緩和ケアまでトータルにサポートするというポリシーの下で患者さんを診ています。慢性期というと一線をリタイアした医師が携わるといったイメージがありますが、間違いだと思います。老健などの介護施設には医療設備がありません。心電図モニターすらないので、高齢者が不調を訴えた時、そこにいる医師に頼るしかない。視診、触診、打診、聴診を駆使して、急変するかどうかを予測しなければなりません。医師としての力が試されます。
◆外科の発想が生きていますね。
東海林 外科でやってきましたが、手術が好きだからということでなく、人の病気を診ることに興味があったのです。その意味で急性期から慢性期に専門を移すことにも抵抗はありませんでした。一つの病気を1人の医者が見続けることは、医療にとって重要です。最後まで診ることにこだわっています。
◆若いころから広い興味があったのですか。
東海林 学生時代から変わりませんね。学生時代には心電図の読影会に出たり、神経内科の原書輪読カンファレンスに出たりもしていたので、周囲はみな、私は内科に進むのだろうと思っていました。しかし、私の興味は医療そのものでしたから、とにかくいろいろな技術や知識を吸収したかった。内科は全ての基本です。何を専門にするにも基本知識は必要なので、内科だけは学生のうちにしっかりと勉強しておこうと思っていました。医学英語でノートを取ったり、一定の期間に1冊の医学書を読破することを自分に義務付けたりしていました。外国の医療にも興味があって米国医師国家試験を受けようと準備を進めたのですが、試験日が大学の卒業試験と重なってしまい、教授に相談したのですが「卒業するのが先だろ」と怒られ、そちらは断念してしまいました。
◆医療への貪欲さはその後どのように発揮されましたか。
東海林 医師になってからも学会に積極的に出席し、人脈を広げていきました。ある学会で出会った米国人教授に「先生の下で働きたい」という内容の手紙を書きまくりました(笑)。その医師も根負けして対応してくれて、外科医なら大御所であるウィスコンシン大学のロバート・E・コンドン博士を紹介しようと言ってくれました。連絡すると、「来るんだったら来ていいよ」ということになり、1年かけて準備して渡米しました。大腸の運動を電気的に見るという面白い研究班に入り、人体にワイヤを埋め、術後回復期に大腸運動がどのように起こるか電気的に解析していました。1年少しで論文になったので、次の勉強先として、がんのアンジオジェネシス(血管新生)の研究をしていたジュダ・フォークマン博士に学ぼうとハーバード大学に電話をし続けました。ずっと門前払いだったのですが、しまいにはあきれ返った秘書が、博士が在室している時間を教えてくれました。「受け入れるポジションがない」ということでしたが、そこも熱意でなんとか押し切りました。そこでは、ミルバーン・ジェサップ博士の下でマウスを使った大腸がんの肝転移の実験をしました。それも論文になって一段落ついたので、1996年に帰国しました。41歳でした。もう少し若い時期に経験しても良かったかなと思っています。
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