医療法人社団輝生会理事長 石川 誠(いしかわ・まこと)
1946年埼玉県生まれ。73年群馬大学医学部卒業。同年同大学医学部脳神経外科研修医。佐久総合病院脳神経外科医員、虎の門病院脳神経外科医員、近森病院リハビリテーション科長を経て、89年近森リハビリテーション病院院長。2000年医療法人財団新誠会理事長。02年輝生会理事長。02〜05年初台リハビリテーション病院院長。08年〜船橋市立リハビリテーション病院指定管理者代表。14年〜船橋市リハビリセンター指定管理者代表。回復期リハビリテーション病棟協会常任理事、日本訪問リハビリテーション協会相談役、日本リハビリテーション病院・施設協会顧問、日本リハビリテーション医学会専門医・代議員。共著に『高齢者リハビリテーション医療のグランドデザイン』『夢にかけた男たち─ある地域リハの軌跡』など。
約40年も前にリハビリ医療に取り組み、脳外科医からリハビリ医に転身。周囲が冷ややかな目を向ける中、高知県でリハビリ病院を立ち上げ、成功すると、今度は「リハビリ病院の立地は地方の温泉地」という常識を破り、東京都心にリハビリ病院を開院。長嶋茂雄氏やイビチャ・オシム氏もリハを行い、名を上げた。制度が後付けしてくる医療を行ってきたリハビリ界の風雲児に、その理念と行動を聞いた。
——日本のリハビリテーション医療の現状は?
石川 今から40年前はもちろん、30年前でも、リハビリテーション医療は惨憺たる状態でした。制度上の位置付けが弱く、診療報酬も非常に低く抑えられていました。価値が認められていなかったのです。それが変わってきたのは、高齢化が始まって寝たきり患者が増え、病院のベッドがどんどん増えてしまったからです。国としては何とかしなければならず、その切り札がリハビリテーション医療だったのです。1990年代からリハビリテーション医療の充実に取り組み始め、2000年には回復期リハビリテーション病棟が制度化され、介護保険がスタートします。これにより、急性期、回復期、維持期という3段階のリハビリテーションが、制度的にも明確になってきました。そういう意味で、2000年は地域におけるリハビリテーション医療の整備元年であると考えています。それからすでに16年ですが、この間に日本のリハビリテーションは急速に変化してきました。医療界でも介護界でも市民権を得て、リハビリテーションが重要であることは、もう誰も疑わなくなっています。
——十分に整備されたのでしょうか。
石川 残念ながら十分ではありません。急性期のリハビリテーションは、まだまだこれからの状況です。回復期は制度ができたことで、量的には整備されてきました。しかし、質的にはとても十分とは言えません。維持期については、量的にも質的にもまだこれから。本格的な整備まで10段あるとすると、ようやく2〜3段上ったところでしょうか。
——質が低いのはどうしてですか。
石川 リハビリテーション医療というのは、とにかく人手がかかります。PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語聴覚士)などの専門職がいなければ始まりません。養成校が増えて、OT、PT、STはずいぶん増えました。2000年頃は約5万人しかいませんでしたが、現在は20数万人になっています。しかし、数は増えたけれど、経験の少ない若い人が多いのです。少々辛口に言わせていただけば、未熟者だらけということです。
脳外科医からリハビリ医に転身
——もともと脳外科が専門だったそうですね。
石川 学生時代に読んだ一冊の本の影響で脳外科に進みました。脳腫瘍の子供の日記です。ところが脳外科に進んでみると、実際には手術をしてもうまくいかないケースが多いのです。手術後のリハビリテーションが非常に貧弱で、これでいいのだろうかと考えたのが、リハビリテーションに進んだ一つの理由です。もう一つは、長野県の佐久総合病院に赴任して、若月俊一院長に言われた一言でした。「君が手術した患者さん、寝たきりでちっとも動けないじゃないか。手術をするのであれば、患者さんの人生に全責任を取りなさい」と言われました。それ以来、脳外科で手術だけやっていても駄目だと考えるようになったのです。
——それでリハビリテーションに進んだ?
石川 そこに光があるように思えたので、勉強を始めましたし、いろいろなところに研修にも行きました。ところが、リハビリテーションの勉強を始めたことで、佐久総合病院から大学の医局に連れ戻されてしまったのです。大学で「リハビリテーションに移りたい」という話をすると、大反対されました。「そんなことは医者のする仕事ではない」というのが大方の意見でした。それが当時の一般的な認識だったのです。そんなとき、リハビリテーションをやりたがっている医者がいると聞き付けた虎の門病院の院長から、うちに来ないかと誘われました。虎の門病院ではリハビリテーションの医者がいなくて困っていたのです。
——虎の門病院では充実したリハビリテーションが行われていたのですか。
石川 虎の門病院には川崎市に分院があり、リハビリテーションはそこで行っていました。驚いたのは、看護が他の病院で行われていたそれと大違いだったことです。当時は、どの病院でも付き添い看護が行われていました。患者さんに付き添い婦を付け、身の回りの世話をしてもらうのです。公的病院でもそうでした。この看護だと、何でも付き添い婦がしてくれるので、患者さんは寝たままになります。虎の門病院分院で行われていたのは、付き添い婦をつけない基準看護。患者さんを寝かせておかず、トイレや風呂に連れていきます。座って食事もさせます。看護の手間は掛かりますが、これだと寝たきりになりません。リハビリテーションではPT、OT、STの仕事が注目されますが、それ以前の問題として、看護がしっかりしている必要があるのです。この看護を広め、そこにPT、OT、STが加わってチームを作れば、リハビリテーションはうまくいくと確信を持つことができました。
リハビリ専門病院を立ち上げる
——その後、高知県の病院に移っていますね。
石川 虎の門病院で学んだことを、地域医療の中でやってみたいと考えたのです。リハビリテーションの効果がはっきり現れるのは、寝たきり患者の多い病院です。そこで高知市の近森病院に行くことにしました。当時の近森病院は、600床のうち120床が寝たきり患者という状況でした。
LEAVE A REPLY