〝古巣〟の厚労省からも批判される始末 「うちの大臣時代でなくて良かった」と安堵する声と、「センテンススプリング(週刊文春)の取材を受けてみたかった」と期待する声の両方が聞かれたそうである。
週刊文春の「公用車で別荘通い」のスクープに端を発し辞職に追い込まれた舛添要一・東京都知事。辞職は自らがまいた種だが、都庁と離れたところで安堵と期待の中、騒動を見守っていたのは、舛添氏が2007年〜09年まで大臣を務めていた厚生労働省である。
塩崎恭久現大臣は、舛添氏の説明責任をどう考えるか記者に問われ「選挙で選ばれた知事ですから、政治家としての説明責任はしっかりと果たしていくべきだ」との優等生的答弁をしていたが、省内では舛添氏を知る職員を中心に「やっぱり……」との声が漏れていた。職員らの話から見えてきたのは、舛添氏の政治家としての資質の低さと、人望のなさである。
「文書を読むのはとにかく早かったね。朝レク(省庁の担当者が朝、大臣に当日の議会答弁用のレクを行うこと)も短時間で助かった」
そう振り返るのは、舛添厚労相に朝レクを何度も行ったことがあるという厚労省職員だ。「読むのが早い」「理解するのが早い」という舛添氏の能力の高さは、都庁職員も認めるところである。
一方で、その〝頭の良さ〟が鼻につくのも周知の事実。一連の疑惑追及でヘトヘトだという全国紙の都庁担当記者は辛辣だ。「東大法学部を卒業し、学者として名を成し政治家になった。自分はとても頭が良いと自信を持っている。一方で、度重なる会見で言っていることがコロコロ変わる。弁明の仕方だけ見ていると、頭が悪いんじゃないかと思う」。
全方位からの「辞めろ」「辞めろ」の大合唱に、「何が何でも仕事がしたい。死んでも死にきれない」と死ぬまでしがみつく意向を示した舛添氏。数日後には「知事の座に連綿としがみつくわけではない」と発言を翻しついに辞職したが、そこまでしがみついた「政治家」を志した原点は自身の介護経験だった、というのはこれまでよく知られた話だ。しかし、この介護経験にも〝自己演出〟の疑惑が付きまとう。
実態なかったと報じられた介護経験 前述の記者が解説する。「舛添氏が『母に襁褓(むつき)をあてるとき』という母、ユキノさんの介護体験をつづった本を出したのは199
8年のこと。当時は男性による介護は珍しく、介護が社会問題化する時期で本はベストセラーとなった。しかし、この介護体験には実態がほとんどないというのです」
複数の週刊誌によると、舛添氏は当時、東京を拠点に活動しており、月に数回、ユキノさんが暮らす九州地方の介護施設に顔を見せる程度だったという。ユキノさんを実質的に世話していたのは、舛添氏の一番上の姉であるAさん夫婦(いずれも故人)。しかも舛添氏は、このAさんと骨肉の争いを繰り広げたという。
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