第95回 ボルツマン分布 南淵 明宏(昭和大教授)
入試といえば「偏差値」だ。
受験生の得点ごとの度数分布が正規分布する、というのが大前提のようだが、得点も含めて世の百般の事象がそんなふうにきれいに整列するなんて誰も思ってはいないだろう。それがヒトならなおさらだ。世の中にはいろいろな奴がいて、そいつらの属性を数値化して度数分布を見たら、「正規分布する」はずなど決してないことは、実際この世で生きていて誰もが信じるところだ。
金を持っている奴。モテる奴。ついている奴。
全然駄目な奴は少ないが、ゼロから右に行くに従って急峻に増加し、一般人というか適当なところでピークを迎える。その後、右肩下がりに段々減っていって、変曲点を迎えて漸減する。
医学部受験生の得点分布を見ても、全体のピークから高得点に向かって下り坂のある点で合否が決定する。
誰もが信じるところは本当は間違いであって、真実はこうだ、というのが科学のすごいところなのだが、どうもやっぱり、「正規分布するわけねえよな」という気がする。
そんな度数分布の代表格は、何といっても個人の収入だろう。
全然収入なし、という奴は非常に少ないが、段々増えていって小市民的なところでいったんピークを迎え、その後、収入が増えるに従い度数はどんどん減る。どんどん収入が増えても度数はゼロには決してならない。
少数だが、世の中とことんついている奴はいる。この分布は経済物理学という分野ではボルツマン分布に近似されるという。人間社会では個人の収入、つまり貧乏人と金持ちはボルツマン分布するというのである。
エントロピーで知られるウィーン生まれの物理学者が提唱した理論は、鍋で水を煮立てた時、水分子のそれぞれの運動エネルギーの分布を推定して出来上がったといわれている。
水蒸気になって鍋から大気に飛び出すほどの運動エネルギーを持った分子も存在するが、それはごく一部で、大半は鍋の中で沸騰しながら水としてとどまるのである。
人間社会でも収入以外に仕事の実力、運の良さ、付き合った異性の数……。ボルツマン分布する現象は他にもいっぱいありそうだ。
医者の世界を考えるとどうだろう。
医者はもともとボルツマン分布の下り坂を下ったところに位置する集団だ。だが、そんな医者だけを抽出した医者社会でもボルツマン分布は生じ得る。
冒険などしないで、「平凡な生活で残りの人生のスケジュールを埋める」という特権階級に安住し、生活にとにかく安定を望む生き方がピークなのかも知れない。
だが、水蒸気になる水分子もあるように、困難を承知で未知の世界に飛び出す無謀が身上の豪傑もいるに違いない。
ラグビーで、バックスとしてトリックで相手のディフェンスラインを抜け出してトライする快感を味わった奴だろう。
もしくは、数学の難問の解法を見つけた時の快感に魅了された奴かも知れない。
下の方のピークにとどまっているつもりなら、トライもできないし、数学の問題も解けないはずだ。馬鹿げた判断で、広い世界に飛び出してほしい。
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